泥水
いったいみんないつから、
子どものころ、
けれど、高校生くらいまでは周りの友人もみんなだいたいそんな調子でやっ
わたしにとって飲み水は、家の水道をひねれば出てくるもので、傲慢なことに特にありがたみもなく、
さらに意識の高い友人は常にコントレックスを飲んでいて、
どうやら10代のわたしは、
しかし、わざわざ水を買う人からは、人類の営みの一環として、
そして、
そんな世間の流れに対し、
大手メーカー各社が全力をあげて採水してきた各地の名水より、
ていうかただ単に、舌がバカなのかもしれないな。
(ゆりしー)
うかつ
幸いなことに平凡そのものな暮らしをしているので、今のところ誰にも命を狙われたりしていないはずだけど、もしなにかがわたしを殺しにやってくるとしたら、それはわたし自身の迂闊さだ。
買い物しようと町まで出かけて財布を忘れるくらいの迂闊さなら、微笑ましい日常の想い出として、ときどき家族の間で語り継がれたりする、無害中の無害なフォークロアなのだが、わたしの迂闊さはときにもっと差し迫っていて、自分の影を踏まずに歩くことができないように、いつも足元にいる。
迂闊によって想定される最悪のケースは、自らの迂闊さが人を巻き込んで傷つけたり殺したりしてしまうことで、例えばこれまでにも、わたしが迂闊に発した言葉によって、その場の空気を凍らせるくらいならいざ知らず、誰かの胸をえぐってしまったことだって確実にあって、それについて考えだすと、誰か有能な霊能者を連れてきて、わたしにお札を貼って山奥の祠にでも封印してくれ、と思う。
物理的な面からいえば、車の運転なんてもってのほかで、皮脂で眼鏡が汚れた教官に怒られながら、教習所の黄色いポールを目安にした超スペシフィックな縦列駐車の方法を学び、なんとか免許証を取得してしまったけれど(ペーパーテスト重視な日本の免許制度恐ろしい)、ただ暮らしていても日々の迂闊をやり過ごすのに精一杯なわたしに、明らかに運転の適正がないことは、教習中から自分が一番分かっていた。
わたしの免許証は、いつか警視庁に返納されるそのときまで、ぴかぴかの無事故無違反のまま、完全無欠の身分証明証としてのみ、その役目をまっとうさせたい。
しかし自分の迂闊さにこんなに気を揉んでいるにも関わらず、自らの迂闊な振る舞いによって、「ああ、あの時になにかがほんの少しでもずれていたら死んでいてもおかしくなかったな」と感じたことが何度もある。自分が人を轢かなくても、自分が轢かれる可能性は充分すぎるほどある。
油断している瞬間にこそ迂闊は訪れるものなので、「気をつける」ということはまず不可能に近いし、気を揉むことによって、迂闊さによって引き起こされる悲劇の可能性を多少なりとも減らすことしかできないので、もはやわたしと迂闊は共存するしかない。
わたしの迂闊が深夜、そろりと寝室に忍び込み、ゴルゴ13のように無慈悲に、背中に銃を突きつけてきて、わたしは安全装置が降ろされる音を背骨で聞く。そして、なんとか引き金だけは引かれなかったことに今晩も胸を撫で下ろして、一日の平穏無事を感謝し、眠りにつく毎日なんだな。
(ゆりしー)
「いろは問題」やってみた
バカリズムさんに「いろは問題」というネタがあって。
「色はにほへど 散りぬるを」から始まるいろは歌といえば、すべてのひらがなを一度ずつ使った文章だけど、「色はにほへど」って冒頭から早速、濁音使ってるよね? っていうことで、バカリズムさんが考案した、濁音を使わない、新しいいろは歌を発表するというネタ。
これを見てふと、自分も作ってみたいなあと思い。
作ってみたのがこちら。
さんたくろおすは きめら
ぬまに なやみ うちあけてる
へそと ひれを ほしゐわ
つか ふゆのねこゑも
よせ
むり
漢字と現代かなづかいにすると
サンタクロースはキメラ
沼に悩み打ち明けてる
「ヘソとひれをほしいわ。つか、冬の猫絵も」
「よせ。無理」
一生懸命悩みを相談する、実はキメラだったサンタクロースに対して、つれない態度の沼。
友達は沼だけなのかもしれないのに、こんな態度とられたら、つらい。
そして意外とギャルっぽい口調の、ヘソのないサンタクロース。
残念ながらバカリズムさんのようにイラストは描けないので、より情景をわかりやすくするため、適切な画像をインターネットから探しだしてみました。
サンタクロースはキメラ
沼に悩み打ち明けてる
「ヘソと」
「ヒレをほしいわ」
「つか、冬の猫絵も」
「よせ」
「無理」
画像があってもやっぱりよくわからなかったし、キメラのサンタクロースなんてGoogleの画像検索では見つからなかった。
ついでに、いらすとやさん の力も借りてみた。
サンタクロースはキメラ
沼に
悩み打ち明けてる
「ヘソと」
「ヒレをほしいわ」
「つか、冬の猫絵も」
「よせ」
「無理」
ちなみにこれを書くために調べていたところ、いろは歌のように、ひらがなやアルファベットなどのすべての文字を使った意味の通る文章を「パングラム(pangram)」と言うらしく。
どこまでいってもパンがついてくるのだった。
(ゆりしー)
ちこく・ちこく
ドナルド・トランプが大統領になったら、アメリカとメキシコの国境間に壁が作られるかもしれないらしいけれど、21世紀になっても人類の間にはわかりあえない深い溝があって。
それは遅刻する人としない人。
どんなに時間に正確な人だって、たまには遅刻することがあるし、遅刻ばかりしている人も、たまには何かのミラクルで時間通りに間に合ったりする。
だけど、たまの遅刻をするしないとは別の次元の遅刻があって。
一般的な遅刻といえば、せいぜい寝坊とか、電車の遅延とか、ちょっとトイレに寄りたくなったとか、とるに足らないつまらん理由。プライベートな待ち合わせであれば、よほどの怒りん坊でもない限り、だいたいすんなり納得してもらえそうな、ありがちにもほどがある遅刻だ。
しかし、そんな凡百の遅刻とはわけが違う、一種の才能を持つ者にしかできない遅刻がある。
家を出るはずの時間にコーヒーを入れ始める。
ぜったいにあと5分で出なきゃ間に合わなくて、まだ服も着替えてないのに、耳かきをし始める。
今朝着る服がないからと、シャツを洗濯し始める(家に乾燥機がないのに!)。
きら星のごとく輝く才能を持つ遅刻界のノーベルたちから、上記のような遅刻の理由を当然のごとくきかされると、凡庸以下の遅刻しかできないわたしは怒る気もしない。
むしろ、わたしが当然のものとしてせせこましく守っている約束ごとを斜め上からひらりとかわす自由さが心底うらやましい。
そこに潜んでいるのは、いったいどれだけ豊かな時間なんだろう。
そして、遅刻がもたらすスケジュールの乱れによって、人生におけるドラマの総量も多そう。
ヒーローは遅れて登場するものだし、遅刻しなかったら、パンくわえてダッシュして、曲がり角でぶつかった感じの悪い嫌なあいつが実は転校生で隣の席だったりもしないし、なんかもう遅刻しないことによって、人生の濃さがエスプレッソとアメリカンくらい違うんじゃないかという気すらしてくる。
わたしも家を出る時間になってから、おもむろにバスタブへお湯を溜めはじめたりしてみたい、と思いながら、今日もアプリで待ち合わせ時間ぴったりに着く電車を調べるPM 21時。
(ゆりしー)
脳科学
人の顔が食べものに見えることがときどきある。
カニバリズム的な話ではないので安心してほしい。
まず代表例として、福山雅治はマカロニグラタンだ。
福山雅治の顔をメディアで見かけると、「ああ、マカロングラタンだなあ…」と思う。
これは、マカロニのまんなかが空洞ですかすかなこととか、こんがり焦げたチーズの下に隠されたどろっとしたホワイトソース、が何かを象徴している、という話ではなく。ただただ「マカロニグラタンだなあ…」と思うだけ。福山雅治のことはすきでも嫌いでもない。
わたしにとって福山雅治は、あんちゃんでも桜坂でもガリレオでも『そして父になる』でもなく、ただひたすらにマカロニグラタン。
ほかにもいくつか例をあげると、タモリは大根おろし、青田典子は油淋鶏、満島ひかりはスターバックスラテ、松重豊は湯葉。
誰の顔でも食べものに見えるわけじゃなくて、どういうわけか食べものに見えるひとと見えないひとがいる。というか、だいたいのひとは特に食べものには見えない。
若くてかわいくて、いかにも活きがよくぴちぴちした女の子のアイドルが、もぎたてのフルーツに見える、みたいなことでもない。肌の色合いや質感はなんとなく関係がありそうな気がしている。
少なくともたぶん10年くらい、機を見てはこの話をし続けてるけど、まだ誰の共感も得たことがない。
このことひとつをとっても、人間の脳にはいまだ多くのミステリーが秘められていることがよくわかりますね。
(ゆりしー)
フュージョン(THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016 ありがとう)
こんばんは、チーム未完成ゆりしーです。
つい先週、チーム未完成の活動開始以来、毎年出展している「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016」(TABF)に今年も参加してきました。
いつもいつも不思議なのですけど、TABFのお客さんは本当におしゃれなひとたちがたくさんいて、「トウキョウ」と「アート」が両方くっついちゃってるブックのフェアーであるのだから、ドラゴンボールでいうところのゴテンクスみたいなもので、それはそれはおしゃれなひとたちが集いまくっても不思議はないといえばないんですけど、かといってふだん東京で暮らしていても、そうそうおしゃれだと思うひとを常々見かけるわけでもなく、それでもTABFにはあんなにもたくさんのおしゃれなひとがたくさん来るのに、みんないつもどこにいるのかなー、おしゃれなひとは大江戸線なんかには乗らないのかなーって、今年も思いながらTABFの4日間(去年より1日ながい)は過ぎてゆきました。
今年は出展者向けのアフターバーティーにも初参加してみました。
からあげ(がそこにいた痕跡を醸しだしてるパセリを見つめただけ)は食べれなかったけど。
楽しみました。
(しをりんとお隣ブースのvisiontrack中村さん a.k.a. クソメガネ英語ペラペラダンサー、ダンスセッションの図)
チーム未完成のブースへお越しくださった方、ありがとうございました。
そういえば、TABFで新発売したものの、なんと2日間で完売してしまい、自分たちの分すらなくなってしまったパンのキーホルダーをオンラインショップで再発売したので、どうぞよろしくです(発送は10月11日から順次)。
お母さんに実家の鍵をもらったら、デフォルトでPIKOの携帯ストラップが装着されてて、そのままになってるので、私も早くキーホルダーほしいなー。
(ゆりしー)
餅は米より出でて、米より米
パンパン言ってるけど、負けないくらい餅がすき。
正月だけじゃなくて、ほぼ一年中食べたい。
日本における米の地位の高さに比べて、餅の置かれた場所は不憫だ。
たしかに米はおいしい。おかずを受け止める包容力も半端じゃないし、きちんと手をかけて炊かれた米の、一粒一粒のつややかな美しさと舌に広がる甘美な旨味。
ほんとうにおいしい米には「ごはんの友」もいらない。秀ですぎているものに友は不要だ。出る杭は打たれる。天才には孤高が似合う。
このように、米のおいしさに対しては、何ひとつ疑いをもたないけれど、だからこそ餅はもっと評価されるべきだという思いに強くかられる。
そもそも餅は米なのだ。
一般的に日本で「ごはん」として食べられているうるち米と餅米の違いは、アミロースという成分の差(wikipedia調べ)。このアミロースの健気な働きが、お餅特有の粘りにつながっているらしい。
ラオスやタイ北部のように、炊いた餅米を主食にしている地域もあるけれど、日本で餅米を炊くケースは、主に赤飯かおこわ。
ほかのだれにも秘密にしてって言ったのに、お母さんが晩ご飯に赤飯炊いちゃったあの日みたいに、それは非日常の食べもの。
そして、餅米が餅米たるゆえんとなるアミロースが本領を発揮した、いわゆる「餅」がもっとも食べられているはずなのは、主に正月。日本のキングオブ祝日。休暇をとらないイメージで知られる日本人ですら、休んでいる人が多い正月は、日本においては非日常このうえない日。
しかし我々は「非日常」という神棚に餅を祀り続けたあまり、日常的な餅との接点を失いすぎていないだろうか。
私は警告したい。
そして、もっと、もっと、日常的に餅と接触したい。
たとえば、ランチで米の代わりに餅を選べるようにしてほしい。
包容力という点で、餅は米に負けていない。雑煮、ぜんざい、磯辺巻き、安倍川。
わたしの実家では「ピザ餅」なるオリジナルメニューもあった(餅にピザソースを塗って、ベーコンと細切りの玉ねぎとチーズを乗せて焼く)。
ごはんでピザを受け止められるだろうか?と書いたそばからドリアのことを思い出したけど、知らないふりをしたい。
さらに餅の美点として、口の中への滞在時間の長さをあげたい。
おいしいものはずっとずっと食べていたい。口唇期ならずとも、おいしくてやわらかいものを口の中でなぶり倒すのは快感だ。
完成度の高いごはんは噛めば噛むほど甘みを感じる。
だけどもがんばって噛み続けたところで、米のそれには限度がある。そのうちすぐに、ほろっと崩れて、すっと喉の奥へ消えてしまう。愛もやさしさも長くは続かない。
それに比べて餅の、文字通りの粘り強さといったらどうだろう?
なんならこちらにじっくり付き合う覚悟がないと、餅の粘り強さは命取りにもなりかねない。
毎年必ず何人かの命を奪っていくことが知れ渡っているにもかかわらず、果敢に挑むものが耐えない、ファムファタール。もし、餅に腰骨があったら、それはウエストから見事にでーんとしたカーブを描いていると思われる。小悪魔扱いされてるこんにゃくゼリーみたいな柳腰の小娘には一朝一夕に醸し出せない貫禄。
そして口のなかに残るその後味は、たしかに餅が米だった過去を感じさせる。
それが餅。
はあ、餅が食べたい。
(今日十五夜だったみたい)
(ゆりしー)