お察しください

ゆりしーめずらしく気がきくね」。
しをりんがわたしにそう言ったのは、先日の東京アートぶっかけフェアー初日終了後に入った池尻大橋の居酒屋でのことだった。


気がきくと言われたわたしがその時したことは、

1.割りばしをみんなに配る。
(割りばしがまとめて入ったケースが、たまたまわたししか取れない場所にあったから)
2.ぼてっと塊で出てきた出汁巻き卵を人数分に箸で切り分ける。
(出汁巻き卵もわたしの手元に置かれたから)

だった。

これは、果たしてわたしが気がきく人として胸を張れるような行動でしょうか?とヤフー知恵袋に聞きたい。

わたしなりの見解を述べると、わたしはほんの数年前まで「気を使っていることを他人に気づかれるのは、気を使っていることを気づかれないようにする気づかいが足りない」という世界観で「気づかい」というものを認識していた。

あえて気のきかなさを装い、ときにただの不躾なひとと思われても構わないという心意気、これが正しい気づかい。

たぶんきっと「真に気がきく人はさりげなく気をきかせる」とか雑誌かネットに書いてあるのを読んで、それを拡大+自分に都合よく解釈した果てにうまれた、エビデンスなき理論。

さて、その理論を行動に移すと、店ではさっさと奥側の席に座る、「こないだの旅行のおみやげのお菓子、何種類か買ってきたけどどれがいいー?」の時、まっさきに「わたしこれがいい~~」ということになる。

しかし、なんのことはなし。そんなわたしの「気づかい」をお察しくださる人など、まず、いないのだった。

わたしはわりとずいぶん気づかなかったけど、そりゃそうだよね、わたしだって満員電車が駅に着くたびにドアのそばからかたくなに動かない人のこと、ただ単に「気がきかねえやつだな」って思ってるし。

気をつかっていたつもりが、お察しの提供を無言のうちに要求していたのかと思うと、恥ずかしくて申し訳なくて、ご提供いただいたお察しをラッピングしてお返ししたい。

けれど習慣というのはおそろしいもので、そのことに気づいたからと言って、すぐに誰よりも早くおしぼりを配ったり、グラスが空になった人のビールを注文できるわけでもなく、依然わたしは「気がきかない人」という称号を押しいただいて生きているのだった。
(「気をきかせる」シチュエーションを思い浮かべると、なんで居酒屋ばかりなんだろう?)

つまりわたしは自分が「ほんとうに気がきかない」という事実にようやく気づいて、人生ってまだまだ新しい発見があって楽しいなって。

せめて今日からは「気がきかない人を装うことがくせになってしまった人」と思われたいな、と願うばかり。


ゆりしー