うかつ

幸いなことに平凡そのものな暮らしをしているので、今のところ誰にも命を狙われたりしていないはずだけど、もしなにかがわたしを殺しにやってくるとしたら、それはわたし自身の迂闊さだ。


買い物しようと町まで出かけて財布を忘れるくらいの迂闊さなら、微笑ましい日常の想い出として、ときどき家族の間で語り継がれたりする、無害中の無害なフォークロアなのだが、わたしの迂闊さはときにもっと差し迫っていて、自分の影を踏まずに歩くことができないように、いつも足元にいる。

 

迂闊によって想定される最悪のケースは、自らの迂闊さが人を巻き込んで傷つけたり殺したりしてしまうことで、例えばこれまでにも、わたしが迂闊に発した言葉によって、その場の空気を凍らせるくらいならいざ知らず、誰かの胸をえぐってしまったことだって確実にあって、それについて考えだすと、誰か有能な霊能者を連れてきて、わたしにお札を貼って山奥の祠にでも封印してくれ、と思う。


物理的な面からいえば、車の運転なんてもってのほかで、皮脂で眼鏡が汚れた教官に怒られながら、教習所の黄色いポールを目安にした超スペシフィックな縦列駐車の方法を学び、なんとか免許証を取得してしまったけれど(ペーパーテスト重視な日本の免許制度恐ろしい)、ただ暮らしていても日々の迂闊をやり過ごすのに精一杯なわたしに、明らかに運転の適正がないことは、教習中から自分が一番分かっていた。
わたしの免許証は、いつか警視庁に返納されるそのときまで、ぴかぴかの無事故無違反のまま、完全無欠の身分証明証としてのみ、その役目をまっとうさせたい。

 

しかし自分の迂闊さにこんなに気を揉んでいるにも関わらず、自らの迂闊な振る舞いによって、「ああ、あの時になにかがほんの少しでもずれていたら死んでいてもおかしくなかったな」と感じたことが何度もある。自分が人を轢かなくても、自分が轢かれる可能性は充分すぎるほどある。
油断している瞬間にこそ迂闊は訪れるものなので、「気をつける」ということはまず不可能に近いし、気を揉むことによって、迂闊さによって引き起こされる悲劇の可能性を多少なりとも減らすことしかできないので、もはやわたしと迂闊は共存するしかない。

 

わたしの迂闊が深夜、そろりと寝室に忍び込み、ゴルゴ13のように無慈悲に、背中に銃を突きつけてきて、わたしは安全装置が降ろされる音を背骨で聞く。そして、なんとか引き金だけは引かれなかったことに今晩も胸を撫で下ろして、一日の平穏無事を感謝し、眠りにつく毎日なんだな。

 

ゆりしー