泥水

いったいみんないつから、当然のごとくペットボトルの水を買うようになったんだろう。

子どものころ、普段家に常備されている飲み物のデフォルトはヤカンで沸かした麦茶で、誕生日とクリスマスくらいしかジュースを買ってもらえなかった抑圧の結果、自分のお小遣いを使ってコンビニや自販機で好きに飲み物を買えるようになると、解き放たれたわたしはぜったいにジュースしか買わなくて、なっちゃんオレンジ、午後の紅茶(ストレート、レモン、ミルク)紅茶花伝なっちゃんりんご、ポカリスエットなっちゃんオレンジ、紅茶花伝の完璧なローテーションでペットボトル生活が成り立っていた。
けれど、高校生くらいまでは周りの友人もみんなだいたいそんな調子でやっていたのに、果糖ブドウ糖液糖に彩られた甘い時代はそう長く続かず、次第に周囲のペットボトル事情は変わっていって、え、お茶?挙げ句の果てに水…?

わたしにとって飲み水は、家の水道をひねれば出てくるもので、傲慢なことに特にありがたみもなく、わざわざ買うようなものではなかった。
さらに意識の高い友人は常にコントレックスを飲んでいて、なぜだかそのことについて、自分がとてもお子様であるように思えた。
どうやら10代のわたしは、ペットボトル飲料を舌のためのエンタメだと思っていて、それは家に帰れば食べるもの飲むものが用意されている環境の庇護下にある絶対的な安心感がゆえの幼児性と直結していた。
しかし、わざわざ水を買う人からは、人類の営みの一環として、水分を摂らなければ生命を維持できない、生き物としてのどうしようもなさと、そこから醸し出される一種の諦念のような粛々とした姿勢を感じて、それがとてつもなく大人っぽすぎてまぶしかった。

そして、わたしにとっての水セカンドインパクトウォーターサーバーの家庭への普及だった。ある時期を境に、オフィスや店にしかないものだと思っていたウォーターサーバーが、友人知人の家にあることがさほど特別じゃなくなってきた。さらに、ウォーターサーバーこそ導入していないものの、家庭用に2Lペットボトルの水をまとめ買いしたり、スーパーで容器を購入するとミネラルウォーターを入れられるサービスを使っている人はまったく珍しくなくなった。

そんな世間の流れに対し、わたしは浄水器すら着けずに水道水をそのまま飲んだり、お茶を沸かしたり、コーヒーを淹れたり、料理したり、歯を磨いたりしていて、外出先でこそペットボトルの水を買うようになったものの、リテラシーの高い人たちから見たら水たまりに直接口つけてすすってるくらいの野蛮な塩梅に見えてるのかもしれないと、戦慄した。

大手メーカー各社が全力をあげて採水してきた各地の名水より、東京都水道局を信奉してるのかというと、そういうわけでもないし、水に対して確固たるスタンスなんて何も持ってないままぬるりとやってただけなのに、いつのまにかみんなが乗ってるボートに乗れずに岸に取り残された感じが拭えなくてせつない。

ていうかただ単に、舌がバカなのかもしれないな。

ゆりしー