ちこく・ちこく
ドナルド・トランプが大統領になったら、アメリカとメキシコの国境間に壁が作られるかもしれないらしいけれど、21世紀になっても人類の間にはわかりあえない深い溝があって。
それは遅刻する人としない人。
どんなに時間に正確な人だって、たまには遅刻することがあるし、遅刻ばかりしている人も、たまには何かのミラクルで時間通りに間に合ったりする。
だけど、たまの遅刻をするしないとは別の次元の遅刻があって。
一般的な遅刻といえば、せいぜい寝坊とか、電車の遅延とか、ちょっとトイレに寄りたくなったとか、とるに足らないつまらん理由。プライベートな待ち合わせであれば、よほどの怒りん坊でもない限り、だいたいすんなり納得してもらえそうな、ありがちにもほどがある遅刻だ。
しかし、そんな凡百の遅刻とはわけが違う、一種の才能を持つ者にしかできない遅刻がある。
家を出るはずの時間にコーヒーを入れ始める。
ぜったいにあと5分で出なきゃ間に合わなくて、まだ服も着替えてないのに、耳かきをし始める。
今朝着る服がないからと、シャツを洗濯し始める(家に乾燥機がないのに!)。
きら星のごとく輝く才能を持つ遅刻界のノーベルたちから、上記のような遅刻の理由を当然のごとくきかされると、凡庸以下の遅刻しかできないわたしは怒る気もしない。
むしろ、わたしが当然のものとしてせせこましく守っている約束ごとを斜め上からひらりとかわす自由さが心底うらやましい。
そこに潜んでいるのは、いったいどれだけ豊かな時間なんだろう。
そして、遅刻がもたらすスケジュールの乱れによって、人生におけるドラマの総量も多そう。
ヒーローは遅れて登場するものだし、遅刻しなかったら、パンくわえてダッシュして、曲がり角でぶつかった感じの悪い嫌なあいつが実は転校生で隣の席だったりもしないし、なんかもう遅刻しないことによって、人生の濃さがエスプレッソとアメリカンくらい違うんじゃないかという気すらしてくる。
わたしも家を出る時間になってから、おもむろにバスタブへお湯を溜めはじめたりしてみたい、と思いながら、今日もアプリで待ち合わせ時間ぴったりに着く電車を調べるPM 21時。
(ゆりしー)
脳科学
人の顔が食べものに見えることがときどきある。
カニバリズム的な話ではないので安心してほしい。
まず代表例として、福山雅治はマカロニグラタンだ。
福山雅治の顔をメディアで見かけると、「ああ、マカロングラタンだなあ…」と思う。
これは、マカロニのまんなかが空洞ですかすかなこととか、こんがり焦げたチーズの下に隠されたどろっとしたホワイトソース、が何かを象徴している、という話ではなく。ただただ「マカロニグラタンだなあ…」と思うだけ。福山雅治のことはすきでも嫌いでもない。
わたしにとって福山雅治は、あんちゃんでも桜坂でもガリレオでも『そして父になる』でもなく、ただひたすらにマカロニグラタン。
ほかにもいくつか例をあげると、タモリは大根おろし、青田典子は油淋鶏、満島ひかりはスターバックスラテ、松重豊は湯葉。
誰の顔でも食べものに見えるわけじゃなくて、どういうわけか食べものに見えるひとと見えないひとがいる。というか、だいたいのひとは特に食べものには見えない。
若くてかわいくて、いかにも活きがよくぴちぴちした女の子のアイドルが、もぎたてのフルーツに見える、みたいなことでもない。肌の色合いや質感はなんとなく関係がありそうな気がしている。
少なくともたぶん10年くらい、機を見てはこの話をし続けてるけど、まだ誰の共感も得たことがない。
このことひとつをとっても、人間の脳にはいまだ多くのミステリーが秘められていることがよくわかりますね。
(ゆりしー)
フュージョン(THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016 ありがとう)
こんばんは、チーム未完成ゆりしーです。
つい先週、チーム未完成の活動開始以来、毎年出展している「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016」(TABF)に今年も参加してきました。
いつもいつも不思議なのですけど、TABFのお客さんは本当におしゃれなひとたちがたくさんいて、「トウキョウ」と「アート」が両方くっついちゃってるブックのフェアーであるのだから、ドラゴンボールでいうところのゴテンクスみたいなもので、それはそれはおしゃれなひとたちが集いまくっても不思議はないといえばないんですけど、かといってふだん東京で暮らしていても、そうそうおしゃれだと思うひとを常々見かけるわけでもなく、それでもTABFにはあんなにもたくさんのおしゃれなひとがたくさん来るのに、みんないつもどこにいるのかなー、おしゃれなひとは大江戸線なんかには乗らないのかなーって、今年も思いながらTABFの4日間(去年より1日ながい)は過ぎてゆきました。
今年は出展者向けのアフターバーティーにも初参加してみました。
からあげ(がそこにいた痕跡を醸しだしてるパセリを見つめただけ)は食べれなかったけど。
楽しみました。
(しをりんとお隣ブースのvisiontrack中村さん a.k.a. クソメガネ英語ペラペラダンサー、ダンスセッションの図)
チーム未完成のブースへお越しくださった方、ありがとうございました。
そういえば、TABFで新発売したものの、なんと2日間で完売してしまい、自分たちの分すらなくなってしまったパンのキーホルダーをオンラインショップで再発売したので、どうぞよろしくです(発送は10月11日から順次)。
お母さんに実家の鍵をもらったら、デフォルトでPIKOの携帯ストラップが装着されてて、そのままになってるので、私も早くキーホルダーほしいなー。
(ゆりしー)
餅は米より出でて、米より米
パンパン言ってるけど、負けないくらい餅がすき。
正月だけじゃなくて、ほぼ一年中食べたい。
日本における米の地位の高さに比べて、餅の置かれた場所は不憫だ。
たしかに米はおいしい。おかずを受け止める包容力も半端じゃないし、きちんと手をかけて炊かれた米の、一粒一粒のつややかな美しさと舌に広がる甘美な旨味。
ほんとうにおいしい米には「ごはんの友」もいらない。秀ですぎているものに友は不要だ。出る杭は打たれる。天才には孤高が似合う。
このように、米のおいしさに対しては、何ひとつ疑いをもたないけれど、だからこそ餅はもっと評価されるべきだという思いに強くかられる。
そもそも餅は米なのだ。
一般的に日本で「ごはん」として食べられているうるち米と餅米の違いは、アミロースという成分の差(wikipedia調べ)。このアミロースの健気な働きが、お餅特有の粘りにつながっているらしい。
ラオスやタイ北部のように、炊いた餅米を主食にしている地域もあるけれど、日本で餅米を炊くケースは、主に赤飯かおこわ。
ほかのだれにも秘密にしてって言ったのに、お母さんが晩ご飯に赤飯炊いちゃったあの日みたいに、それは非日常の食べもの。
そして、餅米が餅米たるゆえんとなるアミロースが本領を発揮した、いわゆる「餅」がもっとも食べられているはずなのは、主に正月。日本のキングオブ祝日。休暇をとらないイメージで知られる日本人ですら、休んでいる人が多い正月は、日本においては非日常このうえない日。
しかし我々は「非日常」という神棚に餅を祀り続けたあまり、日常的な餅との接点を失いすぎていないだろうか。
私は警告したい。
そして、もっと、もっと、日常的に餅と接触したい。
たとえば、ランチで米の代わりに餅を選べるようにしてほしい。
包容力という点で、餅は米に負けていない。雑煮、ぜんざい、磯辺巻き、安倍川。
わたしの実家では「ピザ餅」なるオリジナルメニューもあった(餅にピザソースを塗って、ベーコンと細切りの玉ねぎとチーズを乗せて焼く)。
ごはんでピザを受け止められるだろうか?と書いたそばからドリアのことを思い出したけど、知らないふりをしたい。
さらに餅の美点として、口の中への滞在時間の長さをあげたい。
おいしいものはずっとずっと食べていたい。口唇期ならずとも、おいしくてやわらかいものを口の中でなぶり倒すのは快感だ。
完成度の高いごはんは噛めば噛むほど甘みを感じる。
だけどもがんばって噛み続けたところで、米のそれには限度がある。そのうちすぐに、ほろっと崩れて、すっと喉の奥へ消えてしまう。愛もやさしさも長くは続かない。
それに比べて餅の、文字通りの粘り強さといったらどうだろう?
なんならこちらにじっくり付き合う覚悟がないと、餅の粘り強さは命取りにもなりかねない。
毎年必ず何人かの命を奪っていくことが知れ渡っているにもかかわらず、果敢に挑むものが耐えない、ファムファタール。もし、餅に腰骨があったら、それはウエストから見事にでーんとしたカーブを描いていると思われる。小悪魔扱いされてるこんにゃくゼリーみたいな柳腰の小娘には一朝一夕に醸し出せない貫禄。
そして口のなかに残るその後味は、たしかに餅が米だった過去を感じさせる。
それが餅。
はあ、餅が食べたい。
(今日十五夜だったみたい)
(ゆりしー)
湯気のかなたにかすむ、ぶっかけのおもいで
こんばんは、チーム未完成ゆりしーです。
もともとぼんやりしている方なのですが、近ごろぼんやりに拍車がかかってきた感があって、固有名詞や人の名前がほんとうに出てきません。
いま、例として「こんなときにこんな有名人の名前を思い出せなくて〜」的なやつを書こうと思ったけど、もちろんそんな事例も忘却の空へ。SADSもびっくりなデタラメのDOWNER。
さて、そんなこんなで、このブログで先月末に開催された「TOKYO ART BOOKAKE FAIR vol.4」(通称:ぶっかけフェアー)@Stall Baggage のおもいでを振り返ってみようかと思ったのですが、すべてが首都高くらいのハイスピードで進んでいくこのグローバル化時代に、8月なんて遠い昔のこと。
もう蝉もだいたい死んで、鈴虫がはりきり始めているような季節。私のぼんやりも相まって、すっ飛んでいく夏の記憶。今年の夏食べた冷やし中華は、日◯屋のくっそまずいやつだけで悔いが残るなあ。
なので、ここからはわたしの薄れかけた記憶をもとに、ぶっかけフェアーの様子をちらりとしてみます。
今回は新作ZINE「ホテル・パン」を携えての参加。
「日本のどこかに(たぶん)存在する、一風変わったホテルの“パン”フレット風ZINE」的なコンセプトなのですが、いままでで一番字が多いZINEなので、ブースへ来てくれる人たちに「シン・ゴジラ」くらいの総力戦で、わいわい解説したような気がします。
これまでのZINEのなかでこれが一番すきって言ってくれる人もちらほらいてうれしかったな〜。
未完成はそろそろ活動 3年目に入るくらいで、今回のぶっかけでも、ブースに来てくれるのが初めましてじゃない人たちに会えるのが喜ばしい。
(今回がファーストコンタクトではまってくれた人もいて、それもまたうれしい)
あとBGMがだいたいSMAPで、あがった。
毎回皆さま最高ななか、気になりまくったのは今回初お目見えの「Trischwa」。
渋谷の奥の方にわりと目立つ自社ビルを持ってる、あのグローバルな巨大ネットワーク的な香りを感じるTrischwa(トリシュワと読む)。
私とぱいせんは、まんまと300円で会員になり、Trischwaウォーターとカタログとステッカーを入手した。
入会したときに名前とメールアドレスを書かされて、それからときどきメールマガジンが届くんだけど大丈夫…?かな…?
(写真は無関係です。ぶっかけ中に会場で売ってたフォーおいしかった)
今回で第4回目を迎えたぶっかけフェアーは、なんと今回が最後。
未完成の活動をはじめてまだ2〜3ヶ月のころに、いま日本で一番かっこいい池尻のギャラリーVOILLDへ遊びに行ったことがきっかけで、スーパーラッキーなことに第1回目から参加させてもらうことになり、カラオケやダンボールなどを駆使して、なんとか皆さまのお邪魔にならないよう、KUFUするのがいつも楽しかったです。
主催の加賀美健さんをはじめ、毎回しびれるようなイケイケな皆さまが集う、平和でハッピーでさいこーなイベントでした。
さみしいけど、ぶっかけもSMAPもまたどこかで会えるよね?
ありがとう!そしてフォーエバーぶっかけフェアー!
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《おしらせコーナー》
いよいよ今週金曜からはじまるTABFことTOKYO ART BOOK FAIR 2016に、チーム未完成は今年もありがたく参加させていただきます!
先月発売したばかりの最新ZINE「ホテル・パン」と新作パン・ポストカード10種に加えて、 最新グッズもTABFで一挙に販売スタート!!!!どれもめっちゃかわいいよ!おこづかい握りしめて来てください!!!!
今年はどーーんと4日間開催ということで、未完成は全日程出展します。
ブースは【B-02】!!忘れないようにメモして冷蔵庫に貼っておいてね〜〜
詳細▷▷http://tokyoartbookfair.com/
日程:
9/16(金) 15:00-21:00
9/17(土) 12:00-20:00
9/18(日) 12:00-20:00
9/19(月) 11:00-19:00
入場無料
展示会場:
京都造形芸術大学・東北芸術工科大学 外苑キャンパス (東京都港区北青山1-7-15)
★おまけ★
(ゆりしー)
お察しください
「ゆりしーめずらしく気がきくね」。
しをりんがわたしにそう言ったのは、先日の東京アートぶっかけフェアー初日終了後に入った池尻大橋の居酒屋でのことだった。
気がきくと言われたわたしがその時したことは、
1.割りばしをみんなに配る。
(割りばしがまとめて入ったケースが、たまたまわたししか取れない場所にあったから)
2.ぼてっと塊で出てきた出汁巻き卵を人数分に箸で切り分ける。
(出汁巻き卵もわたしの手元に置かれたから)
だった。
これは、果たしてわたしが気がきく人として胸を張れるような行動でしょうか?とヤフー知恵袋に聞きたい。
わたしなりの見解を述べると、わたしはほんの数年前まで「気を使っていることを他人に気づかれるのは、気を使っていることを気づかれないようにする気づかいが足りない」という世界観で「気づかい」というものを認識していた。
あえて気のきかなさを装い、ときにただの不躾なひとと思われても構わないという心意気、これが正しい気づかい。
たぶんきっと「真に気がきく人はさりげなく気をきかせる」とか雑誌かネットに書いてあるのを読んで、それを拡大+自分に都合よく解釈した果てにうまれた、エビデンスなき理論。
さて、その理論を行動に移すと、店ではさっさと奥側の席に座る、「こないだの旅行のおみやげのお菓子、何種類か買ってきたけどどれがいいー?」の時、まっさきに「わたしこれがいい~~」ということになる。
しかし、なんのことはなし。そんなわたしの「気づかい」をお察しくださる人など、まず、いないのだった。
わたしはわりとずいぶん気づかなかったけど、そりゃそうだよね、わたしだって満員電車が駅に着くたびにドアのそばからかたくなに動かない人のこと、ただ単に「気がきかねえやつだな」って思ってるし。
気をつかっていたつもりが、お察しの提供を無言のうちに要求していたのかと思うと、恥ずかしくて申し訳なくて、ご提供いただいたお察しをラッピングしてお返ししたい。
けれど習慣というのはおそろしいもので、そのことに気づいたからと言って、すぐに誰よりも早くおしぼりを配ったり、グラスが空になった人のビールを注文できるわけでもなく、依然わたしは「気がきかない人」という称号を押しいただいて生きているのだった。
(「気をきかせる」シチュエーションを思い浮かべると、なんで居酒屋ばかりなんだろう?)
つまりわたしは自分が「ほんとうに気がきかない」という事実にようやく気づいて、人生ってまだまだ新しい発見があって楽しいなって。
せめて今日からは「気がきかない人を装うことがくせになってしまった人」と思われたいな、と願うばかり。
(ゆりしー)