餅は米より出でて、米より米
パンパン言ってるけど、負けないくらい餅がすき。
正月だけじゃなくて、ほぼ一年中食べたい。
日本における米の地位の高さに比べて、餅の置かれた場所は不憫だ。
たしかに米はおいしい。おかずを受け止める包容力も半端じゃないし、きちんと手をかけて炊かれた米の、一粒一粒のつややかな美しさと舌に広がる甘美な旨味。
ほんとうにおいしい米には「ごはんの友」もいらない。秀ですぎているものに友は不要だ。出る杭は打たれる。天才には孤高が似合う。
このように、米のおいしさに対しては、何ひとつ疑いをもたないけれど、だからこそ餅はもっと評価されるべきだという思いに強くかられる。
そもそも餅は米なのだ。
一般的に日本で「ごはん」として食べられているうるち米と餅米の違いは、アミロースという成分の差(wikipedia調べ)。このアミロースの健気な働きが、お餅特有の粘りにつながっているらしい。
ラオスやタイ北部のように、炊いた餅米を主食にしている地域もあるけれど、日本で餅米を炊くケースは、主に赤飯かおこわ。
ほかのだれにも秘密にしてって言ったのに、お母さんが晩ご飯に赤飯炊いちゃったあの日みたいに、それは非日常の食べもの。
そして、餅米が餅米たるゆえんとなるアミロースが本領を発揮した、いわゆる「餅」がもっとも食べられているはずなのは、主に正月。日本のキングオブ祝日。休暇をとらないイメージで知られる日本人ですら、休んでいる人が多い正月は、日本においては非日常このうえない日。
しかし我々は「非日常」という神棚に餅を祀り続けたあまり、日常的な餅との接点を失いすぎていないだろうか。
私は警告したい。
そして、もっと、もっと、日常的に餅と接触したい。
たとえば、ランチで米の代わりに餅を選べるようにしてほしい。
包容力という点で、餅は米に負けていない。雑煮、ぜんざい、磯辺巻き、安倍川。
わたしの実家では「ピザ餅」なるオリジナルメニューもあった(餅にピザソースを塗って、ベーコンと細切りの玉ねぎとチーズを乗せて焼く)。
ごはんでピザを受け止められるだろうか?と書いたそばからドリアのことを思い出したけど、知らないふりをしたい。
さらに餅の美点として、口の中への滞在時間の長さをあげたい。
おいしいものはずっとずっと食べていたい。口唇期ならずとも、おいしくてやわらかいものを口の中でなぶり倒すのは快感だ。
完成度の高いごはんは噛めば噛むほど甘みを感じる。
だけどもがんばって噛み続けたところで、米のそれには限度がある。そのうちすぐに、ほろっと崩れて、すっと喉の奥へ消えてしまう。愛もやさしさも長くは続かない。
それに比べて餅の、文字通りの粘り強さといったらどうだろう?
なんならこちらにじっくり付き合う覚悟がないと、餅の粘り強さは命取りにもなりかねない。
毎年必ず何人かの命を奪っていくことが知れ渡っているにもかかわらず、果敢に挑むものが耐えない、ファムファタール。もし、餅に腰骨があったら、それはウエストから見事にでーんとしたカーブを描いていると思われる。小悪魔扱いされてるこんにゃくゼリーみたいな柳腰の小娘には一朝一夕に醸し出せない貫禄。
そして口のなかに残るその後味は、たしかに餅が米だった過去を感じさせる。
それが餅。
はあ、餅が食べたい。
(今日十五夜だったみたい)
(ゆりしー)